愚者の能書き

愚か者が愚かなりに考えたことを記録する

努力の定義と意味

努力とは、たいていの日本人の中で賛美されるものであり、穿った物の見方をする者にとっては至高の題材だ。

結果を伴わずとも得るものがあるとされることもあるし、結果への過程を名付けたものに過ぎないともされる。
才能との対比で用いられることもあるし、努力できることそのものが才能とされることもある。

所定の目標を満たさずとも、その過程において副次的に得られるものがあったらそれは「結果への過程を名付けた派」にとって「努力」と呼んで差し支えないと思うが、そうすると結局「結果を伴わずとも得るものがある派」と同じになってしまう。
では、何一つとして副次的に得られることのない過程というものはあり得るのだろうか。

才能を必要とし、訓練によりその成功率、完成度が上がるものがあったとしよう。
同じ才能を等しい質量で持つ二人がいたとして、この二人が対決した場合、勝敗を決するのは努力ということになる。
そこには、才能が等しくなくとも、努力によって差を埋めることが可能となる、という禁断の果実が埋まっている。

努力できることは確かに才能のうちの一つであるとは思う。
しかし、本当は「正しく努力」できることが才能なのではないだろうか。
結果論ではなく、方法論ではないだろうか。

結果を伴わない「無駄な努力」を徒労という。
徒労という言葉は、副次的に得られるものなんて、負け犬の遠吠えだと、そう断じている。

さて、ここまで愚考を重ねてきたが、そろそろ持論に入ろうと思う。

思うに、努力というのは、己の才能のなさを確認する作業だ。

大抵の人間はすぐに気がつく。
「自分には才能がない」
才能がないなんて言葉はできる努力を全てした人間だけが口にしていい言葉だ、などというプロパガンダを聞いたことがあるが、それは誤りだと思う。

なぜなら、ある才能を伸ばすべく「正しく努力」できることもまた才能のうちだからだ。
自分が才能に対し必要だと思うことをした結果、それが上手くいかないということはもう、才能がないということだ。

才能が無いと嘆きつつ努力らしきものを続けるという行為は、実はかなり尊いと感じている。
これが努力が賛美される本当の理由じゃないかと思うくらいに。

なぜなら、才能無きものの努力は、「どれくらい自分に才能がないか」を確認する作業だからだ。
才能がないことはとうの昔にわかっている。
それでもその行為を止めない。
それはもう、苦行だ。
その果てに待っているのは自分の才能の「底」だけだ。

もしかしたらその「底」とやらは努力を重ねることでかさ上げできるのかもしれない。
しかし何せ、才能がないので「正しく努力」することができないのだから、結局希望らしきものを見せられて釣られてみても、待っているのは今までと同じ苦行である。

他者に教えを乞うて正しいと思われる練習を重ね、実際に成果を挙げることが出来た者がいたとして、果たして彼の者に才はあるのか、無いのか。

思うに彼は、その分岐点を二度と見つけることが出来なくなってしまったのだ。
きっと彼は壁に当たるたびに手を替え品を替え、時に教えを乞う人物を替え、練習するだろう。
それが努力となるのか徒労となるのかは、成果が出るまで全くわからない。
わかるのはそれだけだ。
才能の有無は結局わからないから、彼は栄光に導かれてやはり努力をやめられない。



ところで、あなたが欲しいのは、才能だろうか。

僕が欲するのは、大抵の場合、成果だ。

ものにもよるけれど、もしかしたらそこに才能は不要かもしれない。
努力も必要ないかもしれない。

努力という名の迷路に深入りする前に、じっくりと考えてみることをお勧めする。
たとえ他人にお前は何もしていないじゃないかと罵られる事になったとしても。

結局は成果を手にした者の勝ちなのだから。