愚者の能書き

愚か者が愚かなりに考えたことを記録する

電車の中の会話は結構人に聞かれていると君は知っているか。

俺の胃が丈夫なんじゃなくて

電車の中で聞いた会話である。

 

曰く、ストレスで胃が痛いA氏。

君は平気か、とB氏に尋ねると、B氏曰く、

「自分の事だと思うからストレス感じるんだよ。

他人事だと思って流せ、流せ」

 

理不尽に耐えるのが社会人である、等と言うのは、

そんなんじゃ社会に通用しないよ、と

自分の経験を一般化しかつ、

自分が経験した苦労は皆が甘受すべき、

とか言っちゃう面倒くさいオサーンと変わらない、

と思うかもしれないが、

正しい正しくないはさておいて、

それが現状であるというのは誰もが

渋々うなずいてくれる事と思う。

 

自己啓発セミナーで開眼してしまった我が社の社長曰く、

「己の人生の主人公たれ」

開眼した割には使い古された言い回しだけれど、

それはその通りだと思う。

 

例えば私は、駅構内を改札へ向かって歩く時、

遅い人の後ろについて歩くのが苦痛でならない。

自分の移動速度が他人に制限されるからだ。

わざわざ並んで話しながら歩くな、

スマホ見てないで前を見ろ、

どうしてもっと早くにSuicaを取り出しておかないんだ、

なるべく早足に、人混みを縫う様にして歩いても、

目の前の人波が十戒ばりに裂ける事は無く、

私のストレスゲージはうなぎ上りである。

 

或いはバイクに乗っている時。

私は交通の安全性を確保する意味以上に、

信号待ちの列の先頭に立ちたくなる。

これもやはり、

自分の行動を他人に妨げられるのが

我慢出来ないからだ。

たとえ制限速度以上の速度を

出す事ができなくても、

制限速度に至るまでの時間は

自分の思い通りに加速出来る。

 

批判されたり、間違いを指摘されたりというのは、

たとえ的確にされたものだとしても、

出来れば聞きたくないものだ。

しかしながら、それを他人事として

真正面から受け取らなければ、

改善も進歩も見られないだろう。

それこそ自分が主人公でなければなるまい。

 

しかし、理不尽に遭遇した時、

そんな時まで主人公でいる必要は

無いのではないだろうか。

それが理不尽と分かっている時点で、

聞き流したり、他人事としてしまうのも

いいんじゃないだろうか。

それが処世術ってもんじゃないだろうか。

だって、それは理不尽なんだもの。

降って湧いた回避出来ない不幸に、

わざわざストレスを溜める事も無いだろう。

 

主人公は目立ってナンボである。

しかし私は控えめなので、

特に仕事の場面では、

他人を全面に押し出し

なるべく脇役に、裏方に、

黒子になる様に努力している。

つまり、私の胃が丈夫なのではなく……。

 

大丈夫、問題ない。

私の人生のハイライトは、

働くというところにはなく、

遊びのシーンにあるのだから。