衆愚政治の始まりか
今までの「世論」が狭すぎただけと言えるのかもしれない。
今までは街頭インタビューだったり、電話でのアンケートだったりの限定的な意見を「世論」と言っていたわけだ。
それは統計的に見て正しいものだったのかもしれないし、メディアによる偏向、誘導を含めたものだったのかもしれない。
しかし、ネット・SNSが発達した結果、重いものから軽いものまで、誰もが自分の意見を表明できるようになった。
だが今回のソレは、マスメディアよりずっと立場が不確かで、マスメディアよりアンコントローラブルで、道義的責任とは無関係な不特定多数のメシウマ欲や暴露欲が、“ネット与論”という名の権力の塊を形成し、とうとう国家プロジェクトにまで影響を与えたわけだ。
本来、個々人の意見・意思などというものはコントロールすることは難しい。
これまでは、これを特定の環境下においたり、バイアスをかけることで、大きな意見として集約し扱ってきた。
もちろん、ネットでの発言がこうしたコントロールと無縁のものだとは思わない。
しかし、引用の言う様に、マスメディアよりはコントロールが難しいのもまた事実だと思う。
そして、これまでの「世論」と比べて、より「生」に近い「感情」がうごめいているとも思っている。
言いたいのは、これらを受けて(かどうか本当のところわからないけれど)、国家プロジェクトに影響が出てしまったことは甚だ遺憾である、ということだ。
言ってしまえばこれは、衆愚政治の始まりではあるまいか。
いま、国会前でハンガーストライキに全くならないデモを行っている輩がいるが、こういう手合いに、騒げばなんとかなると、そう思わせる、言質めいたものを与えてしまってはいないだろうか。
ぜひ、こと日本の政治において、与党は支持率などという人気取りバロメーターに左右されることなく、正しい国策、正しい政治を執って頂きたいものだ。
たとえそれが明らかな間違いだったとしても。
そしてそれが間違いであるならば、やはり政治で正されるべきだ。
衆愚政治は言語道断である。