愚者の能書き

愚か者が愚かなりに考えたことを記録する

モノより経験、ってそれ、良いモノ買えてないだけじゃない?


本日の就業中、ネットサーフィンでこんな記事を見かけた。


www.cocoro-quest.net


最近、観光分野でもよく聞く話だが、ちょっと疑問に思っている。
以下、原文の論文を読むでもなく、想像で展開する話だということには留意願いたい。




モノを買うよりも経験を買う方が幸福度が高いというのは本当だろうか。




そもそも、モノを買うという行為にだって、経験は含まれている。
いやさ、「買う」という行為の経験の話をしているのではない。
「買った」「手に入れた」だけで終わるモノなど無いという話である。

家だって、車だってバイクだって、文房具だって、本でもキャンプ道具でも工具でも、モノは買った後にエピソードが続く。

家を買った。
その家には一人で暮らすのかもしれないし、家族で暮らすのかもしれない。
家を買ったその後には、毎日の生活というエピソードが続く。

車を買った、バイクを買った。
一人でかもしれないし、誰かとかもしれない。
よく行く場所、今までに行ったことがない場所、色んな場所へ行ける。
これが経験でなくて何だというのだろう。

買ったモノが消費されるモノ、食べ物や飲み物、石鹸やらシャンプーであったって、そこにエピソードは続くはず。
モノというのは、手に入れた時点で終わるのではなく、経験がくっ付いてくるものである。


経験が幸福度に寄与するということ自体について、僕は否定しない。
ただ、その経験が面白いかどうか、ってことなんだと思う。


じゃあ、なんでモノより経験、なんてことが言われるのかと考えてみる。
答えは簡単、良いモノを買えなかったからだろう。
誰しも、買い物で失敗したことがあるはす。


詰まらないモノに投資してしまった。
これこそが、モノが経験に幸福度で劣るなどと言われる所以ではないだろうか。
そしてこれは、買える経験だって同じである。

思い出してみるがいい。
高い金を払って(払わされて)行った(お供として連れていかれた)キャバクラもおっパブも、その値段に見合った体験を提供してくれたか?
さして楽しいわけでもなく、ずいぶんと無駄なお金を使った(使わされた)ものだなあ、と諦念と共に思っただろう?

なるほど、例えば伝統工芸を体験するとか、牧場で酪農体験するとか、そういうのはいい経験だろう。
もしかしたら、多くの「モノを買うことで体験可能なこと」よりも、目新しく、楽しい経験かもしれない。
だが、キャバクラなどはどうだ?
もちろんキャバクラが楽しいという人もいるだろうが、どこぞの若者アンケートで、あれほど無駄な金は無いという結果も出ていたはず。


zasshi.news.yahoo.co.jp




結局、モノより経験、というのは、経験と経験を比べているだけに過ぎないのではないだろうか。


今はまだ、体験型のアトラクションなどは目新しさもあって、多くの人をその金額に見合ったものとして満足させていることだろう。
だが、いずれそのうち、この手の経験もモノと同様、玉石混交の時代を迎えるはず。
その時が訪れてもまだ、モノより経験、という言葉が幅を利かせていられるだろうか。


高価なものが必ずしも良いモノ、良い経験をさせてくれるモノとは限らない。
しかし、不況のこの時代、何かを買おうと思った時、相応の金を出して、できるだけ良いモノを買おうとする人はどれだけいるだろうか。
結果、安かろう悪かろうで詰まらないモノを購入してしまい、モノより経験などと言い出してしまってはいないだろうか。


それともう一つ。
最近のなんでもシェアする流れにも一石投じたい。
結局、シェアするモノは、なんであれ、満足な体験を提供してくれないように思う。


何故ならば、それは自分の専有物ではないからだ。
所有欲云々ではなく、自分の好きなように、思うように、そのモノを愛でることが出来ないからだ。
誰かと共有する以上、どこかで、誰かと妥協しなくてはならない。

もしもその妥協しなくてはならないポイントが、あなたがモノを大事にするにあたって譲ることが出来ないことだったとしたら。
あなたは大事に思いたいモノを、常に誰かに傷つけられることになるのだ。
そんな想いを抱えながらなお、あなたはそのモノを大切に扱い続けることが出来るだろうか。
それが提供してくれる体験を心地良いものとして享受できるだろうか。




ふう……。
なんだかすっかり熱くなってしまった。

ま、なんだ、付喪神なんてのもいるそうだから。
モノは大切にな。


特に、良い思い出をくれたモノは、な。