愚者の能書き

愚か者が愚かなりに考えたことを記録する

対症療法という言葉が人口に膾炙し過ぎて、対義語が忘れられてない?


 昔の手帳からシリーズ第7弾。
 対症療法の対義語、なーんだ?



絶望に囚われ、諦念を悟りであるかのように語り出した時から、人は対処療法をもってしか世界と対せなくなる。





 答えは原因療法でした。
 全裸ぁ、お前な、勝手に絶望してんじゃねえぞ、それじゃあ対症療法にしかならねえじゃねえか(対処療法は誤り
 
 前に何かのweb記事で、会議の場で「そもそも論」を出す奴は場をかき乱すことしか考えてないので無視、みたいなことが書いてあって、バカじゃねえの、と思ったことがあります。
 いや、ある意味で、それを今言うかよ、と思うこともあるでしょうが、それってつまり、ベースの意思統一すら図れてないってことですよ。
 そんな状況下でね、その会議に出席しているメンバーで何かを決めようっていうのがそもそもの間違いなんじゃないでしょうか。
 あ、またそもそも論出しちゃいました。
 これはあくまで僕の意見ですが、そもそも論が出るのって、本筋から逸れまくってるか、或いはやろうとしていることが対症療法か原因療法のどっちかしかない時だと思うんですよね。

 閑話休題
 まあ、多くの場合において、可能性を信じて原因療法を提案した結果、変化を恐れる大多数の人間から反対されて対症療法的な選択肢しか取れないんですけど。
 対症療法的な手段が取られた時に、軽んじられてると感じて原因療法をこちらから提案するくらいの人間にはなりたいかなあ、なんて。