愚者の能書き

愚か者が愚かなりに考えたことを記録する

我が死を想うーーメメント・モリ


先日受診した健康診断の結果が届いた。
胃に5mm程度のポリープがあるらしい。
1年ごとの要経過観察を申し渡された。


母方の祖父は、胃ガンで亡くなった。
母が小学5年生の頃のことだったそうなので、年齢的な意味で、ごく近い出来事なのだろうと思う。


お酒の飲めない体質の人で、飲むとすぐに真っ赤になっていたそうだが、仕事が営業だったそうで、無理矢理飲んでいた挙句の胃ガンだったそうな。
もっとも、飲酒が原因というのは母の言であって、もしかしたら普通に体質的・遺伝的なものだった可能性もある。


飲酒に関しては、僕はそれなりといったところだ。
飲む量も多くなく、頻度も高くないし、それほど弱くもない。


もちろん僕の胃に発見されたポリープが悪性とは限らないし、健康診断の1週間ほど前の、深酒して各駅停車で嘔吐しながら帰って来た影響があったのかもしれない。


ただ、思ったのだ。
死ぬなら死ぬで、まあ、仕方ないんじゃないかな、と。


今は全く実感のないことなので、意識が追いついていないだけに過ぎないのかもしれないが、僕はたぶん、死ぬこと自体はほぼまったく恐れていないと思う。
人間、生まれた以上はいつか死ぬわけだし。
未練も後悔も全くないわけではないけれど、だいたいのところ、日曜日の夕方を迎える気分で、己の死の運命を受け入れると思う。
痛いことや苦しむことへの忌避感や、悲しんでくれるであろう人々への、ある種の申し訳なさはあるが、死がリアルに怖い、ということは、今のところは、無い。


むしろ避けたい、怖いと感じることは、例えば、5年生存率が7割を超えるので、胃を半分にしましょう、などと言われるケースだ。
詳しくないけれどもそうなった場合、たぶん今ほど自由に飲食できないだろう。


バイク事故での四肢欠損や不随などを考える時もそうだけど、僕は自分の自由が、今謳歌している色々が制限されることが、とっても嫌だ。


結局のところそれは死んでしまったところで同じく奪われるものじゃないかと考える向きもあるだろうが、僕はそうは思わない。
奪われた状態で生きなければならないのだ。
生き地獄だ。
なら、絶望して死んだ方がマシなんじゃないか。





最近寝たきりに近くなってしまった父方の祖母を見ていて思うことがある。
早く楽になりたい、的なことを口にしてはいるものの、治療に関するいろいろや、言動から察するに、あの人は多分、死をとても恐れている。


僕とは違う人間なのだから、違う感じ方をしているのかもしれないけれど、ばあさんは戦前に生まれて、戦争を経験して、じいさんと結婚して、親父を産んで、孫の顔を見て、孫が十分なおっさんになってもまだ結婚どころか恋人も連れてこない、そういう人生は、それなりに苦労もあっただろうけど、最終的な収支としては、幸福側に傾いた人生であったと思う。
そういう意味で、いつお迎えが来ても、まあ、しょうがないんじゃないか、と僕なら思える環境にあると思うのだが、ばあさんはそうではないらしい。
ごく単純に、死という結末そのものを恐れている気がする。
もちろん、僕も家族を失う的な意味でばあさんの死を恐れてはいる。
嘆きも、悲しみもするだろう。
ただ、本人の死を扱う観念としては、別段諦めのつかない状況ではないし、ましてや恐れるものなど、などと思ってしまう。
いっそすっかりボケきって、死ぬことそのものさえ忘れられればいっそ、と思ってしまう程度には、端から見て恐れているように見える。


対して僕はどうだろうか。
特別不幸であるということはない。
結婚してないし子供もいないし、それどころか彼女はおろか友達すらロクにいないけれど、それなりに幸せだと思っている。
完全に満たされているわけではないし、欲しいもの、したいことはまだまだたくさんある。
けれども、自身の死を想う時、それを恐れる心は、今のところ、無い。
これで残していく妻子でもあるならまた別なのかもしれない、というかそういう人間であって欲しいと願ってはいるが。


僕と祖母の違いを考え、伴侶がいるとか子供がいるとかわかりやすいものを除いた時に、わりとすぐに思いついたことがあった。


それは、生きることへの懸命さの違い。


僕は間違いなく、生まれて来た時の勢いの惰性だけで生きている。
途中で加速したことは、多分無い。
もちろん、本や漫画の続きが読めることを願ってはいるけれども、それは積極的に死を選ばない理由であって、断固として生きる理由では無い。
だから、もし明日死ぬと言われても、あっさりと諦めがつく。


祖母は違う。
生まれた時からあんまり丈夫ではなかったし、そのわりにしぶとく戦禍を生き抜いた。
零細企業の社長である祖父との生活は様々な苦労があったことだろう。
息子たる親父が生まれてからは、たぶんまともな感覚の親であったろうから、死んでる場合じゃないって、生きることにも必死だったはずだ。


要するに、名残惜しいのだろう。
死を恐れる人ほど真面目に生きて来たに違いない。


となれば道理で、逆説的に僕は死に恐怖を感じないはずだ。
惜しむものなんて、ほとんどない。
受け入れて、押し流されて、墓場へと辿り着く。


HDLとLDLの数値から目をそらしつつ、そんなことをつらつらと思った日曜日だった。


Sunset